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なお一つその怒りを激せしものありき。そはおぼろげながら方寸のいずれにかおのが仕打ちの非なるを、知るとにはあらざれど、いささかその疑いのほのかにたなびけるなり。武男が憤りの底にはちとの道理なかりしか。わが仕打ちにはちとのわが領分を越えてその子を侵せし所はなかりしか。眠られぬ夜半よわにひとり奥の間の天井にうつる行燈あんどうの影ながめつつ考うるとはなく思えば、いずくにか汝なんじの誤りなり汝の罪なりとささやく声あるように思われて、さらにその胸の乱るるを覚えぬ。世にも強きは自ら是なりと信ずる心なり。腹立たしきは、あるいは人よりあるいはわが衷うちなるあるものよりわが非を示されて、われとわが良心の前に悔悟の膝ひざを折る時なり。灸所きゅうしょを刺せば、猛獣は叫ぶ。わが非を知れば、人は怒る。武男が母は、これがために抑おさえ難き怒りはなおさらに悶もんを加えて、いよいよ武男の怒るべく、浪子の悪にくむべきを覚えしなり。武男は席をけって去りぬ。一日また一日、彼は来たりて罪を謝するなく、わびの書だも送り来たらず。母は胸中の悶々を漏らすべきただ一の道として、その怒りをほしいままにして、わずかに自ら慰めつ。武男を怒り、浪子を怒り、かの時を思い出いでて怒り、将来を想おもうて怒り、悲しきに怒り、さびしきに怒り、詮方せんかたなきにまた怒り、怒り怒りて怒りの疲労つかれにようやく夜よも睡ねぶるを得にき。
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