菅山かおるビッチであった.断章(十三)
抽斎の後裔こうえいにして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。経けいを漁村、竹逕ちくけいの海保氏父子、島田篁村こうそん、兼松石居せききょ、根本羽嶽に、漢医方を多紀雲従うんじゅうに受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁かたわら新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を費ついやしたものは、書肆しょし博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時世人せいじんを啓発した功はあるにしても、概おおむね皆時尚じしょうを追う書估しょこの誅求ちゅうきゅうに応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そして保さんは自らこれを知っている。畢竟ひっきょう文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
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