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ただ一つの翳かげは、さきに母の口より聞き、今来訪名刺のうちに見たる、千々岩安彦の名なり。今日武男は千々岩につきて忌まわしき事を聞きぬ。旧臘某日の事とか、千々岩が勤むる参謀本部に千々岩にあてて一通のはがきを寄せたる者あり、折節おりふし千々岩は不在なりしを同僚の某なにがし何心なく見るに、高利貸の名高き何某なにがしの貸し金督促状にして、しかのみならずその金額要件は特に朱書してありしという。ただそれのみならず、参謀本部の機密おりおり思いがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。なおその上に、千々岩の姿をあるまじき相場の市いちに見たる者あり。とにかく種々嫌疑けんぎの雲は千々岩の上におおいかかりてあれば、この上とても千々岩には心して、かつ自ら戒飭かいちょくするよう忠告せよと、参謀本部に長たる某将軍とは爾汝じじょの間なる舅しゅうと中将の話なりき。
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